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50. 日本糖尿病協会の発展
2007年10月更新
1. 日糖協の歩み 日本糖尿病協会(日糖協)が設立されたのは1961年である。日本糖尿病学会が1958年に設立され、国際糖尿病連盟(IDF)に入会を申し込んだところ、患者の会はどうなっているかと聞かれ、患者の会を作るようにと要請されて、1960年12月に全国から80人ほど集まって会議が開かれ、61年9月29日に東京虎ノ門の共済会館で創立総会が開かれた。 会長はアサヒビールの山本為三郎社長であった。当時新聞社に勤務しておられた橋本関蔵氏(後の理事長)も堀内光先生(東京都済生会中央病院長)に頼まれて手伝ったと述べておられる(設立総会については本シリーズ No.16 参照)。 日糖協の結成には東京、宮城、千葉、長野、京都、大阪、和歌山、岡山、徳島、西日本の10支部が参加し、会員数は3,295名であった。 日糖協が設立された年の10月より機関誌「さかえ」が発行された。編集委員長は東京女子医科大学内科の中山光重教授で、隔月に発行された。 2. 日糖協法人化への苦難の年月 1968年2月に常任理事会が東京で開かれ、法人化について協議された。同年7月東京で開かれた第7回日糖協総会であかばね会の橋本関蔵さんが理事長に選出された。橋本さんが理事長になられてから日糖協は大きく様変わりした。すべてがより積極的に行われるようになった。 しかし、日本糖尿病学会の幹部の対応や支援はきわめて頼りないものであった。橋本理事長はそれから法人化のことで厚生省に足を運ぶことになる。若い担当官に話しても話が上に上がるわけではない。そのうち担当官は他の部署に移る。そこに移ったから後任の人と話すようにとは言わない。来なければそのまま放っておくのである。今度の年金問題とやり方は似ている。ただ役所を動かす方法はある。それは役所のOBに役職についてもらって給料を支払うことである。 橋本さんは根気強く通った。学会の幹部が橋本さんと同行するなどということはなかった。 3. 法人化! 18年ぶりについに実現 このタイトルは橋本さんが第27回日糖協総会のプログラムに書かれたものである。そして次のように述べられておられる。 遂に実現しました。私どもの悲願だった日糖協の法人化が遂に実現しました。想えば、去る昭和45年熊本で開かれました第10回総会で始めて法人化問題が取り上げられ、法人化委員会が発足、委員長には故栂野善三氏(東京あけぼの会)が就任、その実現を目ざして第一歩を踏み出しまして以来、実に18年ぶりに実現したのでした。どんなに嬉しかったか、この挨拶文から溢れてくる。 4. 日糖協の英文名が変わった このようにして橋本さんは1990年まで面倒な理事長の仕事を22年間も続けられた。事務所は日本橋の小舟町から浜松町1-27-4に移った。コンクリート4階建てで、日糖協事務所は3階にある8畳間ほどの広さ。書類や事務机が入ると来客は坐る所もないような状態で、階段には荷物がおいてあって、小さなエレベーターで出入りする状況であった。しかし、このような事務所を整えてくださったのは橋本さんのご功績である。 橋本さんは法人化をみられて1990年引退を表明。5月の第30回総会(東京)で東京女子医科大内科の平田幸正教授が選出された。 平田理事長は日糖協の英文名をJapan Diabetes Association(JDA)からJapan Association for Diabetes Care and Education(JADCE)に変えた。特別に会議を開いて決めたわけではなかった。日糖協は患者と医師だけでなくコメディカルの人達が多く入会してほしいということであったのだろう。 5. 日糖協に関わる 平田理事長は1期で引退することになった。その理由はわからないが東京の事情があったのであろう。そこで突然、東京の石橋和男会員から理事長に立候補してほしいと要望され、急遽その手続きをとり、理事長に選出された。1992年6月12日、芝にある東京郵便貯金会館で決まったことであった。 筆者は日糖協に対しては何かしてやらなければならないと常々考えていたので、理事長に選ばれたことを困ったとは思わなかった。常日頃、糖尿病という慢性病をもって制限しながら生活している人達に対してはよりQOLの高い生活ができるように考えてあげる責務があると思っていた。 そこで理事長になって、まず手近なことでは機関誌「さかえ」を読まれる内容、喜ばれる内容のもの、そして会員の声が聞こえるものにしよう、と考えた。 当時「さかえ」は新書判の大きさで、医学的解説を主要記事とする内容であった。診察のとき手渡しても待合室に置いていくということで、会員が内容が難しいのか理解しづらいのか読まれないということであった。読まれないものを発行しても無駄なので、早速内容を変えることにした。 幸い医歯薬出版が応援してくれることになり、サイズもA6判とやや大きくし、表紙はエムナマエさんに毎号描いていただくことになった。また皆さんに喜ばれるような紙面になるように、医歯薬出版の会議室を借りて編集委員の方々に集まっていただき編集会議も開き、内容は著しく改善され 6. 事務所の移転、代表者会議の開催 1990年に4万5,395人だった会員はそれから激増し5年後には6万人を超えた。各地方連絡協議会の方々には多くの立派な方々がおられ、京都の近藤正社長には会議でいろいろのことを教えていただいた。そして1995年7月に事務所もより明るく広い所(芝大門2-4-4 中根ビル4階)を見つけていただき、そこに移った。 1993年から全国で1、2箇所を選んで東と西とで糖尿病の講演会・シンポジウムを開くことにし、94年は東京、95年は横浜と富山市で、96年は秋田市と京都市で開催、それぞれ野球の新浦壽夫氏、歌手の村田英雄氏に特別発言をしていただき、来場者に強い感銘と楽しみと喜びの半日を過ごしていただいた。 7. 日糖協35年の歩み 橋本元理事長は日糖協創立20周年のおりに写真にあるような式典記念号を発行して祝賀会を開催された(写真1)。その後は25周年も30周年もなかったので機会をみて開かなければと思っていた。 20周年にはB5判で分厚い箱入り上製本を2冊出版しておられる(No.16 参照)。 そこで写真2にある35周年記念誌を発行した。いろいろな記録や一覧表も詳しく掲載して後々の人達が困らないように作った。
8. 日糖協が保健文化賞に輝く
翌朝はGHQのあったビルの6階に集合、昼食後1時30分に全員出発し、城下門より宮城に入り、長和殿の東庭で下車、北東寄より階段を昇り、元旦に陛下が参賀の人達に挨拶される廊下を通って波の門に誘導され、そこで両陛下に拝謁、お言葉をいただいた。その後は係の人の案内で豊明殿、正殿をみながら中庭を抜けて南庭の2匹の亀の形をした刈込みに感嘆して東庭に戻った。ここには2万人が入れるとのことであった。そこから正面鉄橋に出たが、橋の上から二重橋の向こうに東商ホールから日東紡の道路を通して絶え間なしに行き交うJR(E電)がすぐにそこに見える近さなのには驚いた。そこから上道灌濠を右手に歩き、滅多に見ることのできない宮中3殿を見、生垣越しに養蚕用桑畑をみて吹上研究所の前を通り、樹齢300年以上の盆栽に感嘆し、この毎日の手入れが大変だろうと思いながら下道灌濠を右手に見て、左手の濠の向こうに石垣が本丸のあったところ、右手は大奥のあったところと説明を受けながら、およそ50分位で宮内庁の建物の前に出て、宮城の遠足も終わった。外から見るのと内から見るのとでは広さがずいぶん違う印象を受けた。 このようにして日糖協は保健文化賞を受賞することができた。もっと以前に受賞できたかもしれないが、ちょうど第50回のときであった。 近藤正さんは協会の事務局の会計その他のやり方が普通とは違う役所方式であったのを普通の方式に改めてくだされるなど、効率的にしてくださった。2000年より近藤正さんが理事長となられ、日糖協は活性化した。 |
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